黒髪山のトンネルが、開削され、切通しになったのは、昭和32年らしいです。
小さい頃の黒髪山は-今なら、禁じられた-遊び場でした。なんにもない赤土の荒地でした。
昭和36年<7月1日>に
ドリームランドができました。
当時の環境では、入場料が高くて、めったに連れて行ってはもらえませんでした。
時は経ち、20年後には、自分の子供をドリームランドのプールに連れて行くようになっていました。
そして、平成16年<6月6日>にあやめ池遊園地が78年の歴史に幕を下ろしたのに続き、平成18年<8月31日>に閉園しました。
再び、時を遡り、本題の
大仏鉄道です。
明治21年に創立された関西鉄道株式会社は、当初名古屋から柘植を経て草津までの路線を開通しましたが、 さらに大阪までの延長を目指していました。
明治30年には加茂まで開通し、奈良を目指しましたが、木津経由のルートは奈良鉄道(現JR奈良線) が開業していたため、加茂から黒髪山をトンネルで抜けて奈良へ至る路線を計画しました。 それが大仏鉄道の愛称で 呼ばれる「大仏線」なのです。
明治31年4月19日に大仏駅までが開通し、翌32年5月21日には奈良駅に乗り入れ、 加茂ー奈良間の大仏線が全通しました。伊勢や名古屋からの参拝客で賑わいましたが、明治40年8月21日に加茂~木津~奈良間に平坦な現在のJR関西本線のルートが開通したた め、大仏線は開業からわずか9年余りで廃止され、明治の民営鉄道の歴史は幕を下ろしました。
大仏鉄道の線路跡は、その後、道路として利用され、いくつかの橋脚やトンネルなどの土木構造物が路線沿いに点在しています。
今回、加茂駅から奈良市街まで歩いてみました。秋晴れのいい天気です。半そでシャツ1枚で大汗です。
詳しくはGoogleにお任せします。右手に加茂駅を望む田園風景。

観音寺アバット 鹿背山アバット

鹿背山アバット 案内 赤橋アバット

なぜか、橋脚・橋台といえばいいのに、××アバットと呼ばれています。 アバットとは・・・。
建築・土木用語辞典の解説“アバットメント”の略。
橋梁やアーチ構造物の下部構造にあたり、上部の荷重を地盤に伝え、背面からの土圧に耐えるように造る壁状下部構造物。橋梁では橋脚、アーチ構造物では受面を指す。
木津駅からも見える、独立行政法人
都市再生機構(UR)による宅地造成。学研都市へ、着々と進んでいる様子。
事業名称 相楽都市計画事業木津中央特定土地区画計画整理事業
規 模 約245.7ha
計画人口 約11,000人
計画戸数 約3,800戸
交通 【道路】京奈和自動車道「木津I.C.」【鉄道】JR大和路線、JR奈良線、JR学研都市線「木津」駅


やがて、区画整理のきれいな道路ができると、虫たちの世界でも交通遺児が増えそうです。

梅谷地区の公民館・バス停です。

梅谷から、先に区画整理ができている
「梅美台」を抜け、府県境の梅谷口から奈良坂まで帰ってきました。
ここからは、もはや、自分の庭(テリトリー)になります。
学生時代の耐寒訓練コースを進み、
ドリームランドの遺構を覗いてみました。
大佛鐵道記念公園は、今春の4/13を参照ください。今回は興福院から不退寺への抜け道(
奈良:歴史の道)を懐かしく思い出しながら、
下校する学生カップルの後を追いつつ、一条高校から、近鉄新大宮駅まで。

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黒髪山については、以下のような記事もありました。
東横映画が、社運をかけて製作した反戦作品であり、24年にベストセラーとなった戦没学生の手記・「きけ、わだつみのこえ」の映画化
<ロケ地について>
映画を見た人の中には、劇中の【ビルマの密林】をどこで撮ったかという疑問をもった人も多かっただろうと思う。
ロケは奈良の天然記念林(現:奈良ドリームランド辺り)をはじめ、遥か遠く宮崎の青島で撮影。この頃はこうした自然が沢山残ってて、様々なムードを演出できた。
また、伊豆肇が立ち上がるラストのタコ壷のシーンは鶴見の戦災地にて撮影された。今の鶴見近辺からは想像できないだろうが、昭和20年代はこうした戦場跡や戦災地が至る所で残っていた。当時は、そうした所にセットを建てて戦場シーンや焼け跡を撮影する事が多かった。